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好きな歴史のミステリー

165コメント2024/05/20(月) 17:47

  • 119. 匿名 2024/04/27(土) 21:06:46  [通報]

    >>108
    同じように思います
    土地勘も日本社会の慣習にも疎いだろうから、本能寺の周辺で捕まって明智方に引き渡されたのかも
    でも、いくら近習でも日本語をようやく習得したばかりの外国人なら、織田家機密を知っているわけでもないだろうし、はっきり言って明智側も困る存在だったと思う
    殺してしまうほどの遺恨もないし目立つし

    堺あたりの人材斡旋商人にでも引き渡されたんじゃないかと思う

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  • 131. 匿名 2024/04/27(土) 22:56:37  [通報]

    >>119
    wikiには明智軍に投降して捕縛されたと書いてる。
    「イエズス会日本年報」からだって

    >本能寺の変
    編集
    天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という[8]。
    家臣に、弥助をどう処分するかを聞かれた光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑させずに、「インドのパードレ[注釈 5]の聖堂に置け」と言った。このため弥助は南蛮寺に送られて命拾いした[8][11]。この光秀の発言については、黒人の弥助に対する差別意識の表れだったとする説と、弥助に情けをかけて命を助けるための方便だったとする説があるが、真相は不明である。
    その後
    編集
    南蛮寺に預けられて以降、弥助の消息については、史料に記されておらず、全く分かっていない。
    その後の他地域の史料の中には、黒人が登場するものがいくつかあり、弥助以外にもたくさんの黒人が来日していた。フロイスの『日本史』の沖田畷の戦いには、有馬方に大砲を扱える黒人がいるとの記述がある。慶長10年(1605年)頃に描かれた『相撲遊楽図屏風』には、肌の黒い男と髷を結った力士が相撲を取る様子が描かれている。


    あとこんなページがヒットした。

    https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000114712&page=ref_view

    私は日本を出て新天地で傭兵になったんじゃないかと想像する。
    日本人傭兵が多かったと聞いた。
    人材斡旋商人経由で傭兵になって海外に行ったのかも。
    東南アジアは日本に来る前から馴染みがある土地だろうし。
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